院長紹介
梅岡耳鼻咽喉科クリニック
阪神西宮駅前 院長 南野 尚也
2011年9月より阪神西宮駅前梅岡耳鼻咽喉科クリニックの院長に就任いたしました南野(なんの)といいます。
私は生まれも育ちも西宮、俗に言う「宮っ子」であります。
香櫨園小、甲陽学院中・高を卒業し滋賀医科大学に入学と共にこの地を離れて以来約20年ぶりに故郷西宮に帰ってまいりました。
中学・高校では一応真面目な勤勉少年、大学ではラグビー部で汗と泥にまみれる日々。 そして大学病院での研修を経て滋賀・京都の関連病院で経験を積んでまいりました。
私生活では3児の父。家事と育児は欠かすことのない、今流行りのイクメン(容姿は論外ですが・・・)生活を送っております。
ラグビーで鍛えた名残で、体格が大きく怖そうに見えますが子供が大好きです。 日々の診療におきましても子供と接することができますことを楽しみにしております。
このご縁を頂き地元で診療にあたらせて頂けることに非常に感謝しております。
丁寧でわかりやすい診療を心がけたいと思います。 どうぞよろしくお願致します。
私は生まれも育ちも西宮、俗に言う「宮っ子」であります。
香櫨園小、甲陽学院中・高を卒業し滋賀医科大学に入学と共にこの地を離れて以来約20年ぶりに故郷西宮に帰ってまいりました。
中学・高校では一応真面目な勤勉少年、大学ではラグビー部で汗と泥にまみれる日々。 そして大学病院での研修を経て滋賀・京都の関連病院で経験を積んでまいりました。
私生活では3児の父。家事と育児は欠かすことのない、今流行りのイクメン(容姿は論外ですが・・・)生活を送っております。
ラグビーで鍛えた名残で、体格が大きく怖そうに見えますが子供が大好きです。 日々の診療におきましても子供と接することができますことを楽しみにしております。
このご縁を頂き地元で診療にあたらせて頂けることに非常に感謝しております。
丁寧でわかりやすい診療を心がけたいと思います。 どうぞよろしくお願致します。
初めての患者さんへお伝えしたいこと
私は今では珍しい4世代家族の長男としてこの世に生まれました。
物静かな曾祖母、頑固で優しい祖父、厳格な両親、そして後に2人の弟が生まれ男三兄弟となります。
物心つくまでは曾祖母に手をかけてもらいました。
わんぱくな幼少期、キャッチボールをしては隣の窓ガラスを割り、そのたびに両親に叱られシェルターのごとく優しい祖父に逃げ込んだものです。叱られた記憶がない優しい祖父からは、現在からは想像もつかない程の戦争体験を聞かせてもらったことを今も鮮明に覚えています。
そして私のこれまでの人生を振り返ってみても最大の努力といえる、中学受験に臨み両親と共に一心不乱に勉学に励む毎日。 目標は父親のように・・・。
父の母校である甲陽学院に自分も行くのだと。両親そして祖父を喜ばせたいという気持ちに突き動かされてゆきました。
物静かな曾祖母、頑固で優しい祖父、厳格な両親、そして後に2人の弟が生まれ男三兄弟となります。
物心つくまでは曾祖母に手をかけてもらいました。
わんぱくな幼少期、キャッチボールをしては隣の窓ガラスを割り、そのたびに両親に叱られシェルターのごとく優しい祖父に逃げ込んだものです。叱られた記憶がない優しい祖父からは、現在からは想像もつかない程の戦争体験を聞かせてもらったことを今も鮮明に覚えています。
そして私のこれまでの人生を振り返ってみても最大の努力といえる、中学受験に臨み両親と共に一心不乱に勉学に励む毎日。 目標は父親のように・・・。
父の母校である甲陽学院に自分も行くのだと。両親そして祖父を喜ばせたいという気持ちに突き動かされてゆきました。
父の母校に合格
その結果、念願の甲陽学院中学父の母校に合格。受験で張り詰めた反動からか気が緩み中学・高校は随分のんびりと過ごしました。そんな時代はあっという間に過ぎるもので気がつけば大学受験。
人生の岐路に立ち改めて自分は何がしたいのか自問自答する中、ようやく見つけた答えが医学部を目指す、医師になりたいという気持ちでした。
なぜ医師なのか?その当時は医師になるという以前に立派な人になりたい。そしてそれはやはり両親・祖父が喜んでくれることだと思っていました。しかし現役では失敗。
自分で言うのもなんですが、もともと真面目な性格ゆえに医師になりたいという思いは益々強くなり猛勉強の末、滋賀医科大学に入学。その時すでに祖父はこの世を去り・・・残念ながら医師に向かって歩みだせたと伝えることは叶わなかったのです。
大学入学と医師への思い
大学入学と同時に生まれ育った西宮を離れ、一人暮らしを始め、ラグビー部で汗と泥にまみれる学生生活を送りました。
そして臨床実習時代に突然襲った阪神大震災。
滋賀から駆けつけ目にした西宮の光景は衝撃的なものでした。自宅は半壊、自分の知る町の姿は消失していました。
幸い家族は無事で、多くの方に支えて頂き今日の自分があります。この経験を通して自分も人のために何かさせて頂きたい、人のためになる仕事がしたいのだと再確認した出来事であったのです。
振り返れば、医師を志したのは父や祖父に近づき、そして越えたいという思いが原動力でした。
その根底には家族の愛情、支えて頂いた多くの人々の思いやりをたくさん頂けたことがあり、私も人を思いやることができたら幸せだと医師への道を志すことができたと気づくことができました。
滋賀から駆けつけ目にした西宮の光景は衝撃的なものでした。自宅は半壊、自分の知る町の姿は消失していました。
幸い家族は無事で、多くの方に支えて頂き今日の自分があります。この経験を通して自分も人のために何かさせて頂きたい、人のためになる仕事がしたいのだと再確認した出来事であったのです。
振り返れば、医師を志したのは父や祖父に近づき、そして越えたいという思いが原動力でした。
その根底には家族の愛情、支えて頂いた多くの人々の思いやりをたくさん頂けたことがあり、私も人を思いやることができたら幸せだと医師への道を志すことができたと気づくことができました。
医師としてのスタート
医師になってから勤務した滋賀・京都の病院では様々な経験を積むことができました。震災を通して人のつながり、家族の大切さを改めて実感しました。家族を持ち3児の父となった今、両親・支えてくれた人々に改めて感謝の日々です。そしてまた、私の原点である故郷・西宮の地で働けるご縁を頂けたことに感謝しております。
・・・私が志す診療のスタイルは 「丁寧でわかりやすい医療」です。
この言葉だけでは月並みなものですが、大切なのは自分が「丁寧でわかりやすく」伝えたかどうかではなく、 患者さんにとって「丁寧でわかりやすく」伝わったかどうかなのだと思います。
ドクターというものは、どうしても自分の治療に独りよがりになってしまいがちです。
本や資料から知識、技術を得るのはもちろんのこと、本当に「患者さんにとって」役立つ知識・技術を得るためにも、梅岡耳鼻咽喉科グループのメリットを活かし、他のドクターやスタッフとの診療についての意見交換、そして時には患者さんからもご意見を頂きながら「伝わる」診療を目指してゆきます。 家族や友人、恩師や様々な方からこれまでに頂いた繋がりや教えを大切に、 「ここに通って、本当に良かった」 患者さんにそう言って頂ける診療を目指してゆきます。 これからどうぞ宜しくお願いいたします。
経歴
1987年3月 | 私立甲陽学院高等学校 卒業 |
---|---|
1996年3月 | 滋賀医科大学医学部医学科 卒業 |
1996年4月 | 滋賀医科大学 耳鼻咽喉科 入局(研修医) |
1997年6月 | 公立甲賀病院 |
1999年5月 | 滋賀医科大学 耳鼻咽喉科(医員) |
2000年5月 | 市立長浜病院 |
2002年2月 | 公立小浜病院 |
2004年10月 | 日野記念病院 |
2005年4月 | 彦根市立病院 |
2006年7月 | 蘇生会総合病院 |
2010年1月 | 蘇生会総合病院 耳鼻咽喉科 部長 |
専門医とは?
専門医とは、各専門領域において定められた専門研修カリキュラムにそって必要年数以上の研修を行い、試験に合格し各専門学会から専門医として認定された医師のことです。
医療法人 梅華会グループの医師も、いずれかまたは複数の専門医資格を保持しています。
耳鼻咽喉科
4年以上の研修が必要で耳、鼻・副鼻腔、口腔、咽頭、喉頭、気管、食道、唾液腺・甲状腺など頭頸部領域の病気をはじめとしてアレルギー、めまい、顔面麻痺、いびき、声とことばや飲み込みの異常などについて、専門的な知識と技術を持って適切な診療を行い、必要に応じて他の診療科との連携や紹介が的確に行える医師。
※出典:一般社団法人 日本耳鼻咽喉科学会
小児科
学会会員歴が引続き3年以上、もしくは通算して5年以上である医師。
2年間の卒後臨床研修を受け、その後さらに小児科専門医制度規則第15条に規定する小児科臨床研修を3年以上受けたもの。もしくは小児科臨床研修を5年以上受けた医師。
※出典:公益社団法人 日本小児科学会
専門医でなくとも開業し診療を行っている医師もおりますが、各科目における専門医は一定のレベルがあり、安心して受診いただけると私たちは考えております。